福田フクスケのリズミカルな地団駄

フリーライター福田フクスケによる、筋トレのような自慰行為のような写経のような、呪いにも祈りにも似たサービス精神の欠片もない日記。

【20150604】ねもしゅーせいこ

大森靖子の楽曲を下敷きにした芝居が上演、しかも大森靖子本人も演奏&出演するということで、ねもしゅーせいこ『夏果て幸せの果て』@東京芸術劇場シアターイーストを見てきた。

www.oomorinemoto.jp

脚本・演出・出演をすべて兼ねる根本宗子という方は、最近名前をよく聞くなーという認識はあるものの、その作品を見るのは初めて。「月刊 根本宗子」と銘打ち、バーなどで月イチで公演を打っているらしい。
月イチってすごいな!
その多産ぶり、「演劇界のビッグダディ」と呼びたいところだが、女性なので「演劇界のハダカの美奈子」か。うん、ぜんぜん喩えになってないな。じゃあ、「演劇界の肝っ玉おっ母とその子供たち」はどう? でも「肝っ玉おっ母とその子供たち」自体が演劇なので、これも喩えになってないね。「演歌界の石川さゆり」って言ってるようなもんだもんね。「平成の歩く石川さゆり」って言ってるようなもんだもんね。平成にも石川さゆりはいるし、石川さゆりだって歩くし!
ああ、喩えって難しい!

話がダイナミックに逸れてしまったけど、感想としてはですね(以下ネタバレ注意)、根本宗子が「大森靖子」を演じ、大森靖子本人が脳内妄想で呼びかけるもう一人の自分「大森靖子B」を演じる…という趣向はおもしろいし、大森靖子本人の起用の仕方としてこれ以上ないなと思うのだけども、結局それを、作家を演じる作家本人のメタ演劇でしたー…みたいな展開にするのって、「80年代小劇場演劇かよ!」というか、「エヴァンゲリオンかよ!」というか、なんか若い! そして古い! と思ってしまったのですね。

若い人が若い感性でやる「新しい」ことは、たいてい先人が若い頃にすでにやっている「古い」ことなので、つまり「若さ」とは限りなく「古さ」と同義であるというパラドックスが発生するわけです。
でも、若者は「若さ」を「新しさ」だと信じてイキがることが特権だし、年寄りがそれを「○○の再来」「○○の系譜に位置づけられる」とか言及すると、すかさず「懐古厨」とか「自分の知っている文脈でしか批評できない」とか老害のクソバイス扱いされてしまうものであって、これはもうしょうがないことだと思うのよね。
若者は「新しいことやってやった」と思うのはいいけど、先人のしてきたことにも敬意を払う。年寄りは「それもう昔やったやつだよ」と指摘するのはいいけど、それを根拠に否定しない。まあそれしかないと思う。

たとえ「オリジナルなんてどこにもない」のだとしても、世代や人や感性や表現形態が変われば、決して「コピーページにはならない」と、大森靖子自身も歌っている。いや、そう歌っている彼女を題材にした芝居だからこそ、コピーページを超克する強度を持った演劇作品を見たかったなーというのが、率直な感想でした。

でも、今回、根本宗子作品を初めて見たわけだけど、彼女25歳なんでしょ? このクオリティを月イチでやっているのだとしたら本当にすごいと思うし、それこそ、今この若さだからこそできるノリと勢いは大事にしてほしい。マジ尊敬する。そして、彼女の他の作品も見てみたいと思った。
パンフレットの対談で、根本宗子が最初に見た演劇が大人計画で、それはとても幸福な演劇との出会い方だった、といった意味の発言をしていて、大森靖子大人計画という、私が好きなもの2つが根本宗子によってつながった感じがして、それは単純にすごく嬉しかったよね。

あと、大森靖子が思っていた以上にちゃんと「出演」していて、しかもその「演技」がすごく自然でよかった。いや、「自然」っていうと安っぽいな。彼女の演技から、想像していた以上にきちんとした、彼女なりの「演劇的である」というメソッドが確立されているように見えたことに驚いた。
もともと彼女のライブはすごく演劇的でもあるし、演技するように歌うことができる人は、歌うように演技することもできるのだ、という当たり前の才能を見せつけられた思いだ。
もっと虚構の劇世界と、大森靖子の楽曲が絡み合うような「音楽劇」が見てみたいと思ったし、これからも大森靖子自身が役者として演技する演劇を見てみたい。